ノーベル化学賞の「鏡の分子」がさっぱりわからなかったので、ゼロから調べてみた
2026年10月7日、ノーベル化学賞に日本の化学者が選ばれた。東京理科大学の硤合憲三(そあい・けんそう)さん。正直に言うと、最初は名前の読み方からわからなかった。
ニュースには「不斉自己触媒反応」「ホモキラリティー」という言葉が並んでいて、一文字も頭に入ってこない。ただ、「生き物の分子が、なぜ右手か左手の片方にそろっているのか」という謎に関係あるらしい、という一行だけが引っかかった。分子に右手と左手があるなんて、初耳だった。
そこで今回も、海外の記事を読みあさった。ノーベル賞を選んだスウェーデン王立科学アカデミーの発表、イギリスの王立化学会のニュース、スペインの専門家コメント集、硤合さんの研究室が公開している資料まで。
先に言っておくと、この記事を読むのに化学の知識はいらない。高校の化学で寝ていたわたしが、わかった順番に書いていく。
文中のラベルの意味
発表ノーベル賞の選考機関、大学、研究者本人などが発表・発言したこと
報道メディアが伝えているが、発表元では確かめられなかったこと
推測わたしの推測、たとえ話、ざっくりしたイメージ
読みあさった主な記事と資料
スウェーデン王立科学アカデミー英国王立化学会Science Media Centre SpainIndustrial Production日本化学会硤合研究室の資料東京理科大学サイエンスポータル(JST)Wikipedia(英語版)
どの記事に何が書いてあったかは、本文の中といちばん下の一覧に書いた。
先に、調べてわかったことを3行で
分子には、右手と左手のように、鏡に映すとそっくりなのに重ならない「双子」がいる。ふつうに作ると半々でできるのに、生き物の体の中では片方しか使われていない。なぜそうなったかは、100年以上の謎だった。
カガンさんは、ほんの少しの偏りが反応の中で大きくなる現象を見つけた。硤合さんは、できた分子が自分と同じ形の分子を増やしていく反応を作り、200万個に1個くらいの差を、3回くり返すだけで99.5%以上に広げてみせた。
ただ、これで「生命の起源の謎が全部解けた」わけではない。硤合さん本人も「最終的な答えではない」と話している。
まず、「鏡の分子」ってなに
自分の右手と左手を見比べてみる。指の並びは同じで、形もそっくり。でも、右手の上に左手をぴったり重ねることはできない。手のひらと手の甲が逆になってしまう。右手を鏡に映すと左手になる、という関係だ。
分子にも、これと同じ関係のペアがある。使っている部品も、部品のつながり方も全部同じなのに、立体的な並び方が鏡写しになっていて、どう回しても重ならない。化学ではこの性質を「キラリティー」と呼ぶ。ギリシャ語の「手」から来た言葉らしい。日本語だと「不斉(ふせい)」。ニュースに出てきた「不斉」は、ここから来ていた。
「形が鏡写しなだけなら、どっちでも同じでは」と思ったけれど、そうでもないらしい。たとえば「カルボン」という分子は、片方はスペアミントの香り、もう片方はキャラウェイ(ライ麦パンに入っている種)の香りがする。鼻の中のセンサーも分子でできていて、手袋に右用と左用があるように、形の合うほうにしか反応しないからだ。
薬でも同じことが起きる。王立化学会のニュースによると、薬の分子の多くには鏡写しの2種類があって、片方は効くのに、もう片方は効かなかったり、余計な副作用を起こしたりすることがある。報道
生き物は、なぜか片方しか使わない
ここからが、今回のノーベル賞の本題。
実験室でふつうに鏡の分子を作ると、右手型と左手型がきっちり半々でできる。どちらかをえこひいきする理由が、材料のどこにもないからだ。
ところが、生き物の体は違う。わたしたちの体のタンパク質を作っているアミノ酸は、ほぼ全部が片方の形(L型と呼ばれる)にそろっている。DNAの材料になる糖も、全部が片方の形(D型)。こうして片方だけにそろっている状態を「ホモキラリティー」と呼ぶ。
分子に右手と左手があること自体は、1848年にフランスのパスツールが結晶を観察して気づいたのが始まりとされている。それ以来、「半々にしかできないはずなのに、なぜ生き物は片方だけなのか」は、ずっと答えの出ない問いだった。ノーベル化学委員会の委員長は、2人が「100年以上の謎」を解いたと話している。報道
考えてみると、これはかなり変な話だ。地球に生き物が生まれる前、海や岩の上で分子ができたときも、半々だったはず。どこかで片方が勝って、もう片方がほぼ消えた。そのきっかけと、勝ち残るしくみが必要になる。
日本の科学ニュースサイトによると、片方にそろうには「片方を多く作る反応」「片方を後押しして、もう片方を抑える効果」「反応の中で自分を増やすしくみ」の3つがそろう必要があると考えられてきた。報道 カガンさんが2つ目を、硤合さんが3つ目を見つけた、というのが今回の受賞の大まかな構図らしい。
カガンさんの発見:「ちょっとの偏り」が大きくなる
まず、フランスのアンリ・カガンさん。1930年生まれの95歳で、パリ南大学の名誉教授。発表
話の前に、「触媒」という言葉だけ押さえておく。触媒は、自分は変わらずに、ほかの分子の反応を手伝う分子のこと。たい焼きの型みたいなもので、型があると同じ形のものを何個も作れる。推測 鏡の分子を片方だけ作りたいときは、触媒の型そのものを右手型か左手型にしておく。右手型の型からは、右手型の分子がたくさんできる。
ここで、型が「右手型60%、左手型40%」の混ぜものだったらどうなるか。昔は、できる分子の偏りも、型の偏りに比例すると考えられていた。型が少しだけ右に偏っていれば、できる分子も少しだけ右に偏る。グラフにすると、まっすぐな線になるはずだった。
カガンさんは1986年、いくつかの反応でこれが成り立たないことを示した。発表 型の偏りが小さくても、できる分子の偏りがそれより大きくなる。グラフがまっすぐではなく、上にふくらんだ曲線になった。比例しないので「非線形効果」と呼ばれている。
なぜふくらむのか。ドイツの産業メディアの解説によると、右手型と左手型の型が混ざっていると、右と左がくっついた「混ざった触媒」ができて、これが純粋な型よりずっと働きが鈍いのだという。報道
わたしはこれを、ダンスのペアで想像した。右手型10人のうち6人、左手型が4人いる。右と左はやたら気が合うので、見つけしだいペアを組んでベンチで休んでしまう。推測
少数派の左手型は、同じ数の右手型を道連れにしてベンチに座る。残って働くのは、多数派の「余り」だけ。だから、型の偏りは20%でも、できる分子はほぼ全部が右手型になる。実際の反応はここまで極端ではないけれど、「少しの偏りが、反応の中で大きくなる」という感覚はこれでつかめた。推測
スペインの化学者は、カガンさんの発見を「触媒の純度とできたものの純度は、いつも比例するわけではない」とまとめていた。報道
硤合さんの発見:「自分で自分を増やす」反応
次に、硤合憲三さん。1950年に広島で生まれ、東京大学で博士号を取って、1981年から東京理科大学で研究を続けてきた。発表
ドイツの産業メディアの記事によると、硤合さんは、自分の使っていた触媒と、反応でできる分子の形がよく似ていることに気づいたそうだ。それなら、できた分子そのものを触媒にできないか。報道
もしそれができれば、反応はこうなる。右手型の分子が1個できると、それが型になって、もう1個の右手型を作る。2個が4個を、4個が8個を作る。できたものが、自分と同じ形の仲間をどんどん増やしていく。これが「自己触媒」で、鏡の分子でそれをやるので「不斉自己触媒」。ニュースの呪文みたいな言葉は、こういう意味だった。
硤合さんがこの反応を実際に見つけて、科学雑誌のNatureに発表したのが1995年。発表 使ったのは、ピリミジンという部品を持つ材料と、亜鉛を含む薬品で、できる分子は「ピリミジルアルカノール」。名前は覚えなくていい。わたしも覚えていない。この反応は今では「硤合反応」と呼ばれている。
スウェーデン王立科学アカデミーは、この反応を「これまでに行われた化学実験の中で、もっとも驚くべきもののひとつ」と評価したと報じられている。報道
200万分の1の差が、3回で99.5%に
調べていて、いちばん声が出たのがこの数字だった。
硤合さんの研究室の資料によると、右と左の偏りがおよそ0.00005%しかない状態から始めて、反応を3回くり返したら、偏りが99.5%を超えたという。多かったほうは約63万倍に増えて、少なかったほうは1000倍にも満たなかった。発表
0.00005%がどれくらい小さいのか、計算してみた。分子が400万個あったとして、片方が200万1個、もう片方が199万9999個。差はたった2個。ほぼ完全に半々で、ふつうの測り方では区別できない。それが3回の反応のあとには、400個あったら、少ないほうは1個あるかないか、というところまで偏った。
ここでやっと、カガンさんと硤合さんの話がつながった。カガンさんの発見は「少しの偏りが、反応の中で大きくなることがある」。硤合さんの反応は「できたものが自分を増やす」うえに、その増え方に偏りを大きくする性質がある。スペインの化学者は、この反応では「最初はほんのわずかな差が増幅されて、非常に純度の高い物質になる」と説明していた。報道
多数派はどんどん自分を増やし、少数派は増えにくい。くり返すほど差が開く。選挙で少しだけ多く票を取った側が、次の選挙ではもっと有利になる、みたいな話だと理解している。推測
何も混ぜなくても、勝手に片方にそろう
ここまでは「最初にほんの少し偏りがある」話だった。じゃあ、偏りがまったくない状態から始めたらどうなるか。
硤合さんは2003年に、その結果を発表した。鏡の分子を一切混ぜずに反応させても、できた分子は片方に大きく偏った。発表 ノーベル賞の発表文も、片方の形だけができる反応を実現したのは、それまで生き物だけだったと書いている。発表
面白いのは、どっちに偏るかが毎回ランダムなこと。何度もやると、右に偏る回と左に偏る回が、だいたい1対1で出てくる。発表 材料は完全に半々のつもりでも、分子の数をひとつずつ数えれば、偶然どちらかが数個多い。その小さなゆらぎを、反応が拾って一気に広げているらしい。
文字だけだと実感がわかなかったので、ブラウザの中で同じことをまねする、小さな実験を作ってみた。
鏡の分子を増やしてみる
右手型と左手型が、自分と同じ形を増やしていくおもちゃのモデル。最初の数を変えて、何度か「反応させる」を押してみてほしい。
右手型 50.0% 左手型 50.0%
できた分子:0個
これまで:右手型が勝った回 0、左手型が勝った回 0
しくみ:分子を1個ずつ3,000個作る。次の1個が右手型になる確率は(1+右の数²)÷(2+右の数²+左の数²)。2乗にしているのは、同じ形どうしがペアで働くと考えた、わたしのたとえ。硤合反応の本物の式ではない。
何も入れずに何度も押すと、毎回どちらかがほぼ100%になって、勝つ側は右と左でだいたい半々になる。右手型をたった1個入れておくだけで、勝つ回がはっきり右に寄る。3個入れると、ほとんど右しか勝たない。おもちゃのモデルでも、「最初の小さな差が、そのまま全体の運命を決める」感じはつかめた。推測
最初の「ひと押し」はどこから来たのか
では、生き物が生まれる前の地球で、最初の小さな偏りはどこから来たのか。硤合さんの研究室は、この「ひと押し」になりうるものを次々に試している。発表
ひとつ目は水晶。水晶の結晶にも、実は右巻きと左巻きがある。1999年、右の水晶の粉を入れると片方が、左の水晶を入れるともう片方が、ほぼそれだけできた。発表
ふたつ目は、ねじれた光。らせんを描くようにねじれながら進む光(円偏光)があって、これにも右回りと左回りがある。2005年、この光を当てて反応させると、光のねじれの向きに合わせて、99.5%を超える偏りが出た。発表 研究室の資料によると、この光でアミノ酸に作れる偏りはふつう2%にも届かない。その小さな偏りでも、増幅すれば十分ということになる。
みっつ目は、重さがほんの少し違う原子。炭素や水素には、性質はほぼ同じで重さだけ違う仲間(同位体)がいる。その違いだけで鏡写しになっている、ほとんど見分けのつかない分子でも、きっかけとして働いた。2009年には科学雑誌のScienceに載っている。発表
よっつ目は、それ自体は鏡写しでない分子が作る、鏡写しの結晶。DNAの部品のひとつであるシトシンの結晶でも、きっかけになることを示している。発表
水晶も、ねじれた光も、生き物が生まれる前の地球や宇宙にあったものだ。そういう「わずかな偏りのもと」と、偏りを大きくするしくみがそろえば、半々の世界から片方だけの世界に移れる。2人の研究は、その道筋が化学の反応として本当にありうることを示した、ということらしい。推測
じゃあ、生命の起源の謎は解けたのか
解けていない。少なくとも、全部は。
硤合さん自身が、王立化学会の取材に、鏡の分子は「生命の起源の前提条件」で、この反応はホモキラリティーを説明する助けになるけれど、「これが最終的な答えではない」と話している。報道
理由のひとつは、硤合反応が実験室で設計された、かなり特殊な反応だということ。使う亜鉛の薬品は、水があるとすぐ壊れてしまう性質のもので、太古の海でそのまま起きたとは考えにくい。推測 ドイツの産業メディアも、この反応は人工的なもので、生命がどうやって片方にそろったかを証明するものではないけれど、化学の反応でそういうことが起こりうるとは示した、とまとめていた。報道
わたしの理解では、今回の受賞は「答え」というより「ありえない話ではなくなった」ことへの賞だ。半々からどうやって片方にそろうのか、という問いに、「こういうしくみなら起こる」という実例を、実験で初めて見せた。推測
2人について、ついでに調べたこと
賞金は1200万スウェーデン・クローナで、2人で半分ずつ。発表 日本円にすると約1億9000万円になる。報道 日本の化学賞の受賞は、去年の北川進さんに続いて10人目と伝えられている。報道
硤合さんは、受賞の知らせを買い物に出ているときに受けたそうで、「人生でいちばんエキサイティングな日」と話している。報道 東京理科大学では、キャンパスでの出迎えや、最寄り駅でのお祝いの掲示があったそうだ。発表
カガンさんは、薬の工場で使われる「片方だけを作る触媒」の分野を切り開いた一人として知られている。2001年に同じ分野にノーベル化学賞が出たとき、カガンさんが入らなかったことが話題になったという。ノーベル賞は1つの賞を最大3人までしか分けられないからだ。報道 それから25年たって、95歳での受賞になった。
調べてもわからなかったこと
地球の生き物が片方にそろったとき、実際に何がきっかけで、どんな反応が増幅役をしたのか。硤合反応のような増幅が、水の多い自然の環境でも起きるのか。アミノ酸と糖は、どうやってそれぞれ決まった側にそろったのか。どれも、まだ答えは出ていない。
このページは、新しい情報が出たら書き足していく。
ついでに気になったこと
「右手型」「左手型」は、本当に右と左なの?
このページでは、わかりやすさのために右手型・左手型と書いた。化学では、L型・D型や、R体・S体という別の決まりで名前をつけていて、分子の見た目が右か左かとは直接は関係しない。
薬で問題になった「サリドマイド」も鏡の分子の話?
関係はある。サリドマイドは鏡写しの2種類がある薬で、かつて深刻な薬害を起こした。ただ、体の中で2種類が入れ替わってしまうので、片方だけを飲んでも危険はなくならなかった、とドイツの産業メディアの解説は書いている。報道 「片方だけ作れば安全」と単純にはいかない例として知られている。
もし生き物が逆の形を使っていたら?
たぶん、それでも生き物は成り立っていたと思う。研究室の実験では、偏りが右と左のどちらに向かうかは、半々の確率で決まった。地球の生き物が今の側を使っているのも、最初のひと押しがたまたまそっちだっただけ、かもしれない。推測
読みあさった記事と資料の一覧
受賞発表の10月7日から10月中旬までに出たものを読んだ。数字は、ノーベル賞の選考機関と、硤合さんの研究室・日本化学会の資料を優先した。
- Royal Swedish Academy of Sciences:The Nobel Prize in Chemistry 2026
- Royal Society of Chemistry:Henri Kagan and Kenso Soai win 2026 Chemistry Nobel Prize
- Science Media Centre Spain:Nobel Prize in Chemistry awarded to Kagan and Soai
- Industrial Production:What Kagan and Soai discovered about drug synthesis
- 日本化学会:2010年度 日本化学会賞(硤合憲三)
- 硤合研究室:Soai Research Work(PDF)
- 硤合研究室:Asymmetric Autocatalysis(PDF)
- 東京理科大学:硤合憲三栄誉教授ノーベル化学賞記念ページ
- サイエンスポータル(JST):ノーベル化学賞に硤合憲三さん
- Wikipedia:Soai reaction
- Wikipedia:Henri B. Kagan
更新履歴:2026年10月17日 公開
※この記事は2026年10月17日時点の発表と報道をもとに、化学の専門家ではない個人が調べてまとめたものです。「推測」と書いたところはわたしの考えやたとえで、反応のしくみを正確に説明したものではありません。